曹洞宗の仏事のマメ知識


曹洞宗とは


一仏両祖

曹洞宗のご本尊さまはお釈迦さまです。

そして、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、永平寺を開かれた道元禅師を「高祖」(こうそ)とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広められた瑩山禅師を「太祖」(たいそ)と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と呼び、この三師を「一仏両祖」としてお祀りし、信仰のまことをささげています。

拝む時は「南無釈迦牟尼仏」と、お唱え礼拝します。

 

両祖様

曹洞宗には大本山が福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺の二つあります。道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。

道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。

現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒がおります。 


道元禅師

道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度され、24歳で仏道を求め宋に渡るり如浄禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。

28歳で帰国し坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。

その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳で遷化。

永平寺

瑩山禅師

曹洞宗の大本山・總持寺の開祖である瑩山紹瑾禅師は、お釈迦様の教えである「正法」を全国へと広め、曹洞宗の教団発展の基礎を築きました。

文永元(1264)年10月8日、越前の国、多禰邑の豪族・瓜生邸にて生を受け、幼少のころより信仰心に目覚め、わずか8才にして出家の志を発します。
總持寺をはじめとした数ヶ寺の建立とともに、多くの優秀な弟子を輩出し、教線の拡大をはかります。

その後も衆生と信仰との橋渡しとなり、数々の偉大なる功績を残して、正中2年(1325)9月29日、62才で遷化。

總持寺



葬儀について


なぜ、故人の頭を北に向けるのですか?

頭を北に向けてご遺体を安置することを「北枕(頭北面西)と申します。涅槃図を見ると、お釈迦様が頭を北に向けて臥しておられるお姿が描かれています。その理由は「お釈迦様が仏法は北方に広まっていくものだとお示しになられた」と「釈尊の死に倣い、死後の成仏を願う気持ちが習慣として残った」の2つがあるそうです。


線香は何本立てればいいのでしょうか?

曹洞宗では「一本線香」と申しまして、忌明け(49日)までは線香は「一本だけ立てる」という習慣があります。線香の火は蝋燭でつけ、香炉に立てます。線香の数は、曹洞宗は1本です。線香を寝かせたり、折らないようにしましょう。


ご焼香の正しい仕方
ご焼香の正しい仕方

塔婆の意味は何ですか?

梵語の意訳で卒塔婆(ソトーバ)の略です。五輪塔を象徴したもので、最上層は人間の頭を意味し、第二は顔、第三は胸、第四は腹部、第五は脚とされています。仏の全身人、尊体を表しています。角塔婆、略式の板塔婆があります。長さも地方により異なり、最高の先亡供養です。
(1)宝珠形(頭)(2)半月形(顔)(3)三角形(胸)(4)円形(腹)(5)四角形

なぜ、末期の水をするのですか? 

「末期の水」とは、脱脂綿等に水を含ませ、故人の口元を潤す行為です。人間にとって欠かせぬ水それを故人に与えることで、蘇生を願わんとする心情がにじみ出ている行為です。この行為は、お釈迦様が臨終に際して、お弟子様の阿難様に「のどが渇いたから水がほしい」と訴えたので、阿難様が水を差し上げたことに由来する行為なのです。 


数珠はなぜ左手にもつのですか?

なぜ左手に持つのかと不思議に思いますね。それは、左手は仏さまの清浄な世界、右手は私たちの信仰の世界を示しているからです。ですから、左と右手を合わせる合掌は、仏さまと私たちが一緒にいることの象徴を意味します。


三途の川とはなんですか?

この世とあの世との中間にあると信じられている川を三途の川と呼び、人が死んでから、はじめての七日目(初七日)に渡るといわれています。

この流れには激流、急流、緩流の三つの瀬があり、生前になした行為の善悪によって、どの流れを渡るのかが決定されるといいます。

それを決めるのが、川のほとりで死者の着ている着物を奪う奪衣婆(だつえば)と、それを衣領樹(えりょうじゆ)と呼ばれる罪の軽重をはかるための樹にかける懸衣翁(けんえおう)の二人です。着物が樹にかけられると、その人の罪の重さによって枝の垂れ方が異なるので、それによって三つの流れのどれを渡るかを定めるというのです。


 三月またぎは大丈夫?

亡くなるタイミングによっては、四十九日法要まで3カ月にわたることがあります。これを「三月またぎ」と言い、縁起が悪いと考える人がいます。その理由は、語呂合わせからきていると言われています。三月(みつき)⇒身付(みつき)⇒身に付く四十九日と合わせて、「始終、苦(しじゅうく)が身に付く」から、亡くなってから四十九日法要まで、月を3つまたぐのは縁起が悪いと考えられるようになったようです。四十九日法要を行う家族の中には、三月またぎにならないよう、法要の日程を前倒しする方もいますが、無理に日程を調整する必要はありません。


四十九日裁判?

人が亡くなってからの四十九日間を、仏教では「中陰ちゅういん」と呼びます。この間に、死者が次にどこに生まれるかを決める裁判をします。裁判官は、初七日:泰広王、二七日:初江王、三七日:宗帝王、四七日:五官王、五七日:閻魔王、六七日:変生王、七七日:泰山王。七人の裁判官が七日ごとに死者を裁きます。裁判の末、六つの世界に生まれ変わります。

1、天上界 2、人間界 3、修羅の世界 4、畜生の世界 5、餓鬼の世界 6、地獄界。果たしてあなたは・・・



中陰について


中陰とは、人が亡くなってから次の新しい生へ向かうまでの四十九日間のことを指します。 中陰の間に7日間ごとに故人の生前の罪に関する裁きが行われ、生まれ変わる世界が決められるとされています。 死亡の日から数えて七日目が初七日、次の日から七日目が二七日となり(十四日目)三七日(二十一日目)四七日(二十八日目)となり、七七日が四十九日です。この四十九日間を中陰といい中有(ちゆうう)ともいいます。なぜ七日ごとに法事をするのかというと、この中陰の世界では七日七日ごとに死後の世界の裁判官である閻魔がやってきて生前の調査をし、それによって来世が決定されると言われます。そうなると誰しもよりよい来世を望みますので、何とか生前の悪業をかくそうとするのでしょうが、エンマの持っているエンマ帳にはすべての行為があますところなく記録されているので、絶対にウソをつくことができないことになっています。そこで遺された家族が、七日七日の追善供養をしてよりよい果報があたえられるようにという願いから、初七日より四十九日に至る法要になったそうです。

  泰広王

 

故人が三途の川を渡り、「泰広王(しんこうおう)」が生前の殺生について調べます。

  初江王

 

「初江王(しょごうおう)」が生前の盗みについて調べます。

  宋帝王

 

「宋帝王(そうたいおう)」が生前の不貞について調べます。

  五官王

 

「五官王(ごかんおう)」が生前に嘘をついてないか調べます。

  閻魔大王

 

水晶の鏡に生前の罪状が写し出され「閻魔大王(えんまだいおう)」が調べます。

   変成王

 

「変成王(へん じょうおう)」が生まれ変わる条件を加えます。

   泰山王

 

「泰山王(たいせんおう)」が六つの世界の中から故人の行く先を選びます。

初七日から七七日まで、故人がどの世界に行けるか裁きを受けます。残された者(遺族や親族)が法要をつとめる事により、この世からあの世へ善を送ることができます。
法要を重ねることで、故人の善が増し、故人の罪が軽減されます。



満中陰について



法要について



お墓参りについて